▼SEとしての道のり

2012年07月06日

■ズタズタになったプライドの恩恵

プライド昨日は蒸した非常に空気の重たい1日だった。黙ってたっているだけで、じわじわと汗が滲み出るあの感じ。日本の梅雨、日本の夏が確実に到来したのだと感じる事となった。

現在携わらせて頂いているシステム構築の仕事も、基本設計ラストスパートの時期となり、昨日今日は最後?のお打合せの時間を頂き、仕様の詰め作業を行っている。久しぶりに書いて書いて書きまくった凡そ3ヶ月余り。何としてでもお客様要望をまずはこのドキュメントに気持ちを込めてしたためておかねば−という思いだ。

基本設計−と言えば、苦い経験がある。

続きを読む

sigma1126 at 08:29|このブログを人気ブログランキングで応援する | PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

2008年01月31日

★携帯小説 ドラマ「サブルーチン」

★携帯小説 ドラマ「サブルーチン」創刊!

ソフトハウスに入社した若者が色々な体験をしながら成長していく物語です。この業界/仕事のエキス・ノウハウがぎっしり。

IT企業やシステムエンジニア(SE)・プログラマー(PG)に興味をお持ちの方々に特にお奨めです。

簡単に読めますよ。

http://mini.mag2.com/pc/m/M0075722.html

皆様、携帯アドレスを登録して
お楽しみください!

sigma1126 at 23:59|このブログを人気ブログランキングで応援する | PermalinkComments(1)TrackBack(0)この記事をクリップ!

2004年11月09日

■バタバタ4年目(2)

バタバタ4年目の続きです。

・・・・・

空港に到着したのは夕方5時頃だっただろうか。何しろ一大事だと聞いていたので、私以下4名はその日からの徹夜を覚悟して現場へ向った。

現場は、このプロジェクトの為に特別に作られたプレハブ住宅だ。その中に、テスト用の汎用コンピュータ、プリンタ等が設置されている。

私達はその建物に入り、プロジェクトルームの扉を開けた。するとそこには人・人・人、人込みであった。

それは、会社の大ピンチ−という事で、全国の部署にヘルプ命令が下った結果である事が判明した。毎日のように5、6人の単位でヘルプ要員が送り込まれて来ているとのこと。どうやら我々は後発であったらしい。

恐らくほとんど皆が同じ会社の人間なのだが、知った顔もいない。大阪の部署からの援軍が多かったのかもしれない。

それにしても、すごい人の数だった。良く見ていくと、元気な顔をしている方々と、目が据わり、生きた屍状態となっている一部の方々がいた。多分、後者の方々が早くからこのプロジェクトに参加している方々であろう。既に精気を失い、人を寄せ付けない凄みを感じた。怖かった。

さて、気を取り直し、「我々も力にならなくては」−という事で、出発前に言われたように○○副部長に指示を仰ぐべく、人込みの中を「○○副部長はどちらでしょうか」と聞いて回った。

そして数分後、やっとの事で、副部長に対面し、「東京の○○事業部から来た者です。何をお助けすれば宜しいでしょうか」と判断を仰いだが、「ちょっと待っていてくれる?」と30分程待機。

そして、次の指示は、「今日はこのままビジネスホテルに泊まってくれる?」だった。

なんとも拍子抜けした。

確かに、毎日のように人を送り込まれたのでは、それを受け止めるマネージャもたまったものではないだろう。会社と現場の意思の疎通の不一致を微妙に感じた。

ただ、必要か否かは別として、次々とヘルプ要員を送り込む事で発注先に誠意を示していた事になるのかとも思った。(しかしあくまでシステムを正常にカットオーバーさせる事が唯一無二の誠意であるのだが)

・・・・・

その日はビジネスホテルに向い、少々のアルコールを入れて寝た。
「恐らく明日からは大変だ。」

・・・・・

翌日、朝9時、現場へ向った時にはまだほとんど人影はなかった。どうも完全徹夜になってるわけではなさそうだ。

狭いプロジェクトルームの中、立ち尽くしたまま、副部長の到着と指示を待った。
座席はあるのだが、恐らく決められたレギュラーメンバーのものだ。勝手に座ることも出来ない。何をして良いかもわからず呆然と立ち尽くしたままであった。

30分、1時間程たつと次々にメンバーが出勤してきた。やはり幽霊状態の人も多い。そして見る見るうちに席は埋まった。やはり我々の座る場所はない。

副部長が到着したが、どうも我々の扱いに手を焼いているようであった。システムの内容もわからず、また、経験した事のないメーカーの環境だ。即戦力として働かせるのが難しい事は理解出来る。だが、それにしても指示が出ない。気が付くと既に昼ごろであった。

そしてついに仕事の指示が出る。「君たち立ちっ放しではつらいだろう。廃棄リストを段ボールにでも詰めて座ってなさい。」....なんと「椅子作り」が最初の仕事だった。

「わかりました!」
不思議なものだ。プチ断食の後の食事でやたら食物の味を感じられ、食べられる事の幸せを感じるように、こんな指示・仕事でも、やることが出来た事の喜びの方が大きかった。
すかさず廃棄リストと段ボール、ガムテープを用意した。廃棄リストを箱詰めし、それを2段重ねてガムテープで止める。これで立派な椅子の出来上がりだ。

「探せばやれる事はある。」
これをきっかけに、同じ境遇にある方々の椅子を「ほいきた!」とばかりに作ったり、バラバラグチャグチャになっているマニュアル類・キャビネの整理整頓をしていった。
コンピュータに触る仕事とはおよそかけ離れていたが、何故か不満も何もなく、むしろこの状況を楽しめた。今だからそう思えるのかもしれないが。

そして夕刻。ようやくそれっぽい仕事が来る。
目の前のCOBOLのコンパイルリストがドサっと積まれた。高さ2〜30センチ程であろうか。そして1本のラインマーカ。

「Display命令を使っている箇所全てをマークしてくれ。これらはデバッグ用なので、最終的には削除しなければならない。そして、削除した時にロジックが変わってしまうような箇所があったらチェックして欲しい。」

単純作業であったが、朝から比べると比べ物にならない程、仕事っぽかった。
次々とプログラムリストのページを捲りながら、該当箇所をマークしていった。

プロジェクトメンバー同様、機械もかなり消耗していたようだ。5分も作業すると手はインクで真っ黒、プリンタも相当オーバーヒートしている。インクが散って見えない箇所もあった。また、こんな状態なのでラインマーカも長くは持たない。近くのコンビニに2回程は追加で買っただろうか。

数時間後、渡されたものは全て終了したので、再び副部長に次なる指示のお伺い。
「あっ、今日はもう良いよ。」
まだ、午後8時頃だったか。徹夜を覚悟に乗り込んでいるので、またまた拍子抜けした。
「ではまた明日9時に来ます。」

・・・・・

3日目。
またコンパイルリストのマーカー作業が始まった。
「即戦力には到底なれないから、こうやって少しずつ慣れていくしかないな。」と自分に言い聞かせ、黙々とこなしていった。

ところが昼に事態は動く。

「君たち良くやってくれてね。これでもう東京に戻ってくれて構わないよ。○○部長の方には僕の方から話しておくから。」

「・・・なんだったんだ。この3日間。。。」

・・・・・

前述のように、プロジェクトの大ピンチでお客様に誠意を見せる動きの一環であったと思う。だが、もう少し現場のマネジメントと会社が連携して動けば、余計な神経を使う必要もなく、もっと効率よくプロジェクト修復への道も描けたであろう。

その後このプロジェクトがどうなったのかは、聞いていない。

ただ、自分にとってとても貴重な体験であったのは間違いの無いところだ。

シグマクレスト
人気ブログランキング

sigma1126 at 16:00|このブログを人気ブログランキングで応援する | PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

2004年11月04日

バタバタ4年目

4年目(1987年)は、後輩の面倒と仕事をパラレルにこなしまくった1年であった。

実は、これ以前より、総合食品メーカーの販売情報検索システムの維持についても、後輩の面倒を見つつ従事していた。ただ、仕事はこれ1本に集中していたので、面倒を見ながら、危なくなりかけたら自分が力ずくで完了させる−という繰り返しになっていた。

ところが、この頃からは、1つのプロジェクトに集中して拘われる時間が極端に無くなって来た。

販売情報検索システムの保守・維持・追加改善作業は依然継続していたので、まず、その仕事を後輩に多くを任せ始めた。何故なら、もう1本、全く別の電機メーカー様の顧客管理業務を任されたからである。

こちらは、プログラム開発の一括受託の仕事であった。COBOLにADABAS/NATURAL。
ADABASについての知識はほぼ無い状況で望んだが、何とか必要な部分を覚え、こなしていった。後輩がやはり1人ついていたが、2人で何とか力ずくで終わらせた感じだ。

夏以降、総合食品メーカーでもう1本仕事が入る。

これは全農様とのオンライン受注データの取込対応だ。
これに関しては、要件の聞き取りと概要設計部分までは自分で担当し、詳細設計以降を同期の人間に委ね、あとは時折の状況把握と課題解決に努めるようにした。
本番は年明けなのでまだ余裕はある。上手く任せられれば良いと思った。

このお客様との付き合いも3年目を迎えていたので、お客様から信頼を頂ける様になったと感じており、かなり多くの仕事を任されるようになってはいた。忙しかったが、有難く充実した時間であった。(やはりお客様との徹夜経験は効く。)

さて、2、3本、仕事をパラレルにこなしている毎日であったが、ここで全く別の種類の仕事に従事する事になる。

秋も深まったある日、部長に呼び出された。

「大阪の○○部署で市役所の総合業務を行っているのだが、プロジェクトが大変な事になっており、今般、社長より東阪の全部署にヘルプ要員を出すよう命令が下った。この部では君に頼むしかない。やってくれるか。」

聞くところによると、既に契約上の納期は越えており、このままいくと損害賠償問題にまで発展しそうであった。部長も鬼気迫る表情であった。まさか、「いいえ」と言える状況ではない。社長から東阪の全ての部署に出された命令だ。

私が所属していた事業部では私の他に後輩3名がノミネートされており、合計4名だ。

恐らく現地にて、プロジェクトはお祭り状態なので、期限がいつまでとなるかもわからない。片道切符のようなものだった。

従って、やりかけの仕事に復帰する事はもはや出来ないかもしれない。
部長からは「今の仕事については後は何とかする」と言われたが、自分が居ないとそれぞれ残したものにはかなり不安があった。(それだけそれぞれに上手く任せきれていなかったということだ)

とりあえず、付け焼刃的な引継ぎだけ済まし、言い渡された2日後にいく事となった。

場所は北陸地方。「とにかく助けに行かねば...」という思いで、羽田から飛行機に乗り込む。1人ではなかったので、心寒い思いはなかったが、自分が最も先輩なので、一応仕切らなくてはならない。

ただ、この市役所業務はNECの機械を使用していたので、とても自分が行って即戦力になるとも思えなかった。それだけが不安な要素であった。

だが、現場で見たその光景は、想像を超えるものであり、自分の不安など一気に吹っ飛んでしまうものであった。

(続く)

シグマクレスト
人気ブログ一覧

sigma1126 at 18:19|このブログを人気ブログランキングで応援する | PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

2004年10月31日

どろどろ3年目(3)

1986年の初夏。「販売情報検索システム」稼動後数ヶ月。いくつかの試練はあったが、何とかそれを乗り越え、次のプロジェクトを進めることとなった。

油事業のシステムの再構築の一環で、大豆や菜種など、油の原料を絞った結果、発生する油粕の販売管理システムだ。

今回は、初めてシステム構築プロジェクトの最初からの参画となった。とても恵まれた役割をいただいたものだ。

当時は、「PRIDE」や「MIND-SA」と言った、システム開発方法論や、システム分析手法が業界に浸透し始めた頃。これらの手法にのっとって、開発プロジェクトが進められて行く事になった。これは大きなチャンス。

まずは「要求分析」フェーズ。さらにこれは、「現状システムの分析」と「新システムのモデル作成」という大きく二つの工程に分かれる。

現状システムの分析では、現状の仕事の生業を調査した上で、問題点・課題等を浮き彫りにする。従って、実際の業務現場に足を運ぶ事が多くなった。

本社で契約・販売する部署の方々へのヒアリングとまとめ。そして、そもそも油の製造についてのイメージを深めるため、初めて製油工場にもお邪魔して見学させていただいた。既に夏を迎えていた事もあり、工場で漂う匂いは、ある意味また格別(!?)なものであった。

何もかも新しかった。

これまでは、常にプログラムや仕掛けに近いところ、つまり下流工程主体の役割であったが、適用業務にどっぷりつかる。当時はまだ、ドキュメントを手書きで起こす時代であったので、業務イメージや業務フローの作成も全てテンプレートと鉛筆を駆使しての職人芸(!?)だった。端末等コンピュータに触れることは滅多に無い。

お客様もこのプロジェクトにはかなり力を投入しているようだ。キックオフの打ち合わせもかなり大規模で行われ、かつ役職者の方もこの仕事にかんでおられた。

そんな状況だったので、打ち合わせの場も、今までに無い緊張感が走る。「自分でやりきれるか」という気持ちは常にあったが、逆にそれを振り払うが如く、開発方法論やコミュニケーション技法等、多くの勉強をし、現場にあたっていた。

初めての事で、とまどいや大変さはあったが、上流工程に参画する事で、仕事をいただいている−というよりも、仕事を動かしている(錯覚かもしれない)という感覚を持つことが出来た。

現状システムの分析から、新システムのモデル作りの工程。
これは、とても身に付くことの多い充実した楽しい毎日であった。

だが、このプロジェクト生活は長くは続かなかった。

・・・・・

プロジェクトが開始して、3、4ヶ月経った頃であろうか。先の4月に本番を迎えたシステム「販売情報検索システム」のご担当より1本の電話が鳴る。

「このままでは販売情報検索システムの維持が成り立たない。会社としての対応を求む。」
実際の言葉は柔らかめであったが、これはクレームだ。

私がこの担当を離れた後は、協力会社2名の方をこのシステムの維持担当として引き継いでいた。が、実態として、荷がきつかったのだろう。時折、オンライン・バッチを問わず、トラブルが発生していた旨、伝え聞いていた。

おまけに、その後もデータ件数は増加の一途、また、情報検索リクエストの件数も予想をはるかに上回り、要求レスポンスに応える事が出来ていなかった。

そんな背景の下のご依頼だ。直ぐに会社上司と相談した。このシステムの状況を短期間で打破する為には、従事していた人間の復帰が必要だった。ところが、当時の方々は、他の部署の方であったり、協力会社の方であったりして、それぞれが他の職場に移動しており、戻っていただくのは不可能だった。

・・・自分しかいない。・・・

背筋にピーンと張り詰めるものがあった。

結局、油粕の販売管理システムは基本設計以降、他のメンバーに引き継ぐ事となり、自分は元居た鞘に戻る事となった。

必要とされるのは有難い事だ。今ならそれを素直に喜べる。が、当時はまだ若く、むしろやるせない気持ちになった記憶が深く残っている。

・・・・・

2年目より担当していたのはバッチでデータベースセッティングするものであったが、もう人が居ない。このシステムの全ての機能について問い合わせやトラブル対応にあたり続けた。この検索システムのエンジンに相当する部分や、技術的にはSASについては必要に迫られ、ほぼ0から勉強しつつ、維持を行っていた。

具体的には、少しでもパフォーマンスアップ可能と判断出来る部分はバッチ・オンライン検索機能を問わず、虱潰しに調べた。限られた時間の中で対策をお客様と検討し、対応していった。また、途中再びマシンスペックが耐えられないと判断し、例によりマシンを外部より借りて人間スケジューラと化す事もあった。

日々格闘の連続。きつい...。

販売情報検索システムに始まり、途中横道で貴重な体験をしつつも、最後にはまた元に戻ってさらに倍−と思えるほど、このシステムに首まで浸かった3年目であった。

ふぅ。。。

シグマクレスト
人気ブログランキング

sigma1126 at 12:59|このブログを人気ブログランキングで応援する | PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

2004年10月28日

どろどろ3年目(2)

迎えた5月(1986年)、販売情報検索システムの月次処理の1回目を迎えていた。

日次では、日々の販売実績情報と予定情報をデータベースに累積する処理をしているが、このデータベースの情報の内、商品や得意先に関する属性情報を付け替え、洗い替えするのが月次処理の目的だ。

従って、多くのマスターデータを検索しなければならない。
また、付け替えた項目が、キーの一部となっている事から、再集計・再並び替え処理も必要だ。つまり、マスター項目付与後に、日次と同様ファイル分割をした上で、ソートサマリー処理を行い、結果を集約し、データベースに格納する−という工程を踏む。

日次と比べ、月次はデータ件数の母数がはるかに大きい。
日次で積みあがるデータ件数をチェックしていたが、月次処理が近づくにつれ、実際の件数が、予想のそれをはるかに上回る事が見えて来た。

・・・・・

5月に入る直前、ファイルの分割処理での分割数を増やし、ソート、サマリーのJOBを追加すると同時にJOBスケジュリングの変更を行っていた。

すると次の問題が発覚する。

元々、日次が締まった後に、1昼夜かけて月次処理を行い、翌日にデータベース反映−というスケジュールで動いていたが、これがどうみても無理であった。

ご担当の方、運用部隊の方々と相談の上、今回はGWを使って、処理を行い、GW明けにデータベースをユーザー開放する方向で話が決着。

ソートとサマリー塗れとなったGWであった。初めての処理で、ディスク不足となり異常終了する事や、わずかながらチョンミスも発生した。ご担当と共に徹夜もしながら、何とか間に合わせる事が出来た。

そして翌月。こちらの方がさらに大変な事となる。

・・・・・

今度はGWという猶予がない。しっかりとJOBのスケジュールを組みなおさなければならない。ところが、ここでまた、外部要因から課題が出てきた。

マシンの力不足。

他の重要なシステムが動いている関係で、スケジュール通りにこちらのバッチ処理を動かすと他のシステムにも資源が行き渡らなくなる−という検証がされた。

このままではこのシステムの運用が成り立たない

そこで、「マシンを借りる」という決断がなされた。たまたま近くで同じIBMの汎用機の資源を貸してる会社があり、それを借りて月次処理をこなす。その間に、マシンの資源を増加・強化し、その次の月次処理の時期には、通常の運用が出来るようにする−というのが広い見地での作戦であった。

ただ、こちらとしてはたまったものではない。

同じIBMの汎用機と言っても、設定されている環境が違う。つまり、数百あるJCLをそこの環境に合わせて書き直す作業が発生した。

検索−すべて置換−が出来るような修正ならまだいい。ただ、問題は使用するカートリッジテープの表現だった。

お客様の環境では、データセットネーム(ファイル名)から、登録されているテープの發魍笋蠹てるミドルソフトを使用していた為、JCL上では、テープ名の表記はない。
ところが借りるマシンにはそんなソフトが導入されている筈はなかった。ファイル名とテープとの関係を調べ、それをJCLにひとつひとつ記述する事になる。

時間もなかった事もあり、このあたりはさすがに泣きそうだった。

だが、何とかその苦難を乗り越え、いざマシンのもとへ!

JCLと、およそ400本のカートリッジテープを段ボールに詰め込み、タクシーで現地へ移動。そして、処理を始めた。

当然、スケジューラもないので、数百あるJOBを自分が「人間スケジューラ」となって、ひとつひとつ実行−確認の繰り返し。一つでもミスがあると初めからやり直さなければならない。単純だが神経をすり減らす作業であった。

いくつかの小さいミスで一時処理がストップする事もあったが、ようやく無事に終了する事が出来た。丸2日くらいかかっただろうか。

そしてまた、400本のテープと共に戻る。そして最後の累積マスターファイルをデータベースにロードして、ようやく運用に乗せる事が出来た。

これは本当に大変な一週間であった。

・・・・・

そしてさらに翌月。

マシンの能力が増強され、何とか3日かけての月次処理をスケジューラに乗せて動かす事に成功した。

この数ヶ月はお祭りだった。。。

この月をもって、運用が落ち着いたと見なされ、私は協力会社の方に役割を引き継ぎ、同じお客様の別プロジェクトに参加する事が決まった。

・・・・・

P.S. 書いてたら、思い出して疲れがどっとぶり返してしまいました。。。

シグマクレスト
人気ブログ一覧

sigma1126 at 19:46|このブログを人気ブログランキングで応援する | PermalinkComments(111)TrackBack(0)この記事をクリップ!

2004年10月25日

どろどろ3年目(1)

1986年の2〜3月、間もなく社会人丸2年経過し、3年目に突入となる。

大手総合食品メーカー様の「販売情報検索システム」の本番稼動まで、既に1ヶ月前後の状況の中、私が担当していたバッチのJOB設計に重大な欠陥が発覚した。

あろう事か、このJOB設計は、データ件数・ディスク使用量・処理時間等、ほぼ考慮されていないものだったのだ。

自分で気付かず、また、周囲から指導を賜らるチャンスがなかったとは言え、お粗末なものだった。

その時から、昼夜を問わず汗をかき続ける事となる。

件数・ディスク使用量・処理時間等の見積りを行った上で、JOBの見直しを行った。

ネックとなったのはソートの処理。

1回のソート処理に於いて使用出来るディスク量については、標準である程度定められていたが、この標準に従うと、最大ファイルを20〜30分割した上で、こまめにソート処理を行わなければならなかった。

ここまでソートの工程は単純に1工程と考えていたので、これは堪えた。

ファイル分割の為の処理を作成し、JOBを追加すると共に、ソートJOBの分割、そしてソート後の複数ファイルをひとつのファイルに纏める処理の作成とJOBの追加。

JOBスケジューラーへの登録申請をぎりぎり済まし、最終運用テストに滑り込んだ。

最終運用テストでは、0件の入力データよりテストをする。

スケジューラへの登録申請やJCLに記述ミスが無い事を確認するテストである。何箇所かでABEND(Abnormal End : 異常終了)し、運用チームに呼び出されたが、まだ本番ではないので気は楽であった。

不具合箇所は速やかに修正し、テストを終えた。

・・・・・

1986年4月。物流システムを先頭に、次々と再構築プロジェクトが動き始める。

そして、私達の出番もいやおうなしにやってきた。

まずは、データベースの初期セットアップを行う為、月次処理から始まった。

思ったより時間がかかったが、データの初期設定という事で、昼間の時間も使えたので、それ程問題とはならなかった。(この月次処理がまた次の新たな火種となる)

そして翌日、オンライン検索機能のオープン。

問合せは随時発生したが、都度対応していった。

夜、今日から日次バッチ処理もスタートだ。
本番稼動当初は、現場で待機して欲しいという要望を受けた。
もちろん、私自身も、無事稼動を確認しなければ気が済まない。ここから数日間は昼夜逆転(徹夜含む)状態となった。

このシステムは、各システムから入力されたデータを加工し、検索用データベースを構築するもの。従って、バッチ処理の順序も、他のシステムの後であり、処理系では一番最後であった。(これが終了するとマスターの更新処理と夜間バックアップを残すのみ)

こちらにデータを渡す側の処理がトラブルとなり、なかなか始まらなかったり、こちらの不具合でストップさせてしまったこともあった。

その都度、不具合部分を修正し、本番移行申請等をお願いした。時には、ルールを越えた対応をいただいた運用(オペレータ)チームの方々には今でも頭が上がらない。

今を思えば、再構築システム立ち上がりのこの状況の中で、運用を担当されていた方々のご苦労と気合、そして気転の利かせ具合は並大抵のものではなかったと思う。

そんな1週間余りを何とか持ち応え、徐々に落ち着いていった。夜中の問い合わせはちょこちょこ入るものの、何とか運用にのってきたようだった。

そして、5月の月次処理を迎える事となる。
水面下で、もうひとつの爆弾の導火線がジリジリと音を立てていた。

シグマクレスト
人気ブログ一覧

sigma1126 at 13:43|このブログを人気ブログランキングで応援する | PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

2004年10月22日

大切な2年目だった(3)

2年目(1985年)の夏、大手総合食品メーカーの「販売情報検索システム」のパフォーマンス調査報告の作業を終え、本格的に構築プロジェクトの一員に加わった。

仕掛けとしては、日次で、他システムで作成した販売情報を受け取り、検索用のデータベースを夜間で更新するバッチ処理と、日中、データベースの検索リクエストを受付け、それを画面・帳票・ファイルにレポート出力するオンライン処理とに大きく分かれていた。

開発体制としても、検索用データベースの設計終了後はバッチチームとオンラインチームとに分かれ、それぞれが詳細設計、製造、テストしていく事となっていた。

私はバッチチームの担当となった。

チームと言っても、その時はまだ基本設計終了のタイミングであり、主にバッチ処理を担当していたのは、私の上司の部長だけであった。

従って、しばらくは部長に面倒見ていただきながらも、現実的には私が一人で担当するようなものだった。

バッチ処理の設計−についてはこれが初体験であった。

後々考えてみれば、ある部分を除くとそれ程難しいものではなかった(集計及びレイアウト変更)。が、初体験の身分では難しい部分も多かった。ジョブフロー設計やプログラム分割のコツ・マスター検索の定石等は教えていただくか痛い目を見ないと覚えない。

恵まれた事に、この辺りの多くの知識を教えていただく事が出来た。

ただ、それは上司の部長からと言うよりは、お客様のご担当からであった。情けないが有難い話だ。

その方の上司の方からは、「金を出して、その上勉強までさせてあげてる。」などと軽く皮肉られる場面もあったが、それはなんとか誠意で応えるしかない。

そんな中で、なんとか詳細設計・プログラム設計をレビューしていただきながら進捗させていった。それと共に、製造準備に入った。

プログラム製造については、協力会社に頼む事になっており、仕様書の整備と説明・開発環境整備、及び開発支援ツールの準備など、慌しく時が流れていった。

特に協力会社とのやりとりについては苦労した。

今だから言えるが、簡単なプログラムであるにも拘わらず、非常に品質の悪い状態であがってきたからだ。

FORTRANしか経験していないプログラマにCOBOLのプログラムは難しかった。

上へのGO TO文だらけの「二度と見たくないスパゲティプログラム」が多発した。

おかげ様で、ほとんど全てのプログラムを自分自身で書き直すハメとなり、品質管理・外注管理の難しさを思い知らされる事となる。

なんとか一通りの処理がバッチ結合テスト出来たのは秋が深まった頃。

ここからは、総合テストの為、現場に入る。オンライン側と含め、8名の体制であった。

オンライン検索側との結合確認の準備・作業の傍ら、年明けからは、本番運用の準備を始めた。

本番用のデータベースの申請、JOBNET設計、スケジューラへの登録申請を行うと共に、JCL(Job Control Language : UNIX、Windowsのシェル、バッチファイルに相当)の作成とその他資源の本番環境移行申請など、4月本番向け、着々と準備を進めていった。

順調−な、筈だった。

ところが、あと1ヶ月で本番という時に、私の経験のなさが招いた致命的なバッチJOB設計の欠陥が発覚する。

(次号「どろどろ3年目」へまたまたまた続く)

シグマクレスト
人気ブログランキング

sigma1126 at 17:09|このブログを人気ブログランキングで応援する | PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

2004年10月17日

大切な2年目だった(2)

2年目(1985年)の夏から秋にかけては、大手総合食品メーカー様向けの「販売情報検索システム」の構築プロジェクトに加わった。

当時このお客様は、ACOS(NEC)の汎用機からIBMの汎用機への移行及び再構築プロジェクトの真っ盛り。

社運を賭けたビッグプロジェクトであった。全てのシステムは、性格の違いでさみだれではあるが、翌年4月に一気に本番を迎える予定だ。

この「販売情報検索システム」は、再構築プロジェクトの中の販売システムのサブシステムの位置付けで、当時の私が所属する会社が受注したのだった。

まずは、パフォーマンス調査報告の作業を担当した。

まだリレーショナルデータベースが浸透しておらず、ましてやSQLを組み込めるような言語もほぼなかった時代だ。

検索エンジンとなるデータベースインフラとして何を採用するかは、このシステムの生命線でもあった筈だ。

候補としては、IBMの階層型データベースであるIMSと、統計解析ツールであるSASがあがっていた。

SASについては、自社のサイエンス事業部で実績があった為、そちらの部署の方が担当。

IMS側について、協力会社の先輩に指導いただきながらの担当であった。

そのような重要な役割をいただけたのは有難い事であった。

ところが経験不足は否めない。

ほとんど先輩が作業を進め、自分はじっくり見つめて技術を盗んでいくのが精一杯であった。

ただ、そのおかげで、技術的な意味で、IMSのデータベースの構築方法が多少は理解出来たと思う。

実は、この作業の最中に、お客様のこのサブシステムのご担当とも何回かやりとりをした。

私は駆け出しであった為、先輩の隣で黙って相槌を打つ程度のものであったが。。。

しかし、この方とは、今まで、何度ともなく、仕事で関わらせていただく事になるとはこの頃には想像つかなかった。

お客様で、何とも失礼であるが、私の師匠の一人だ。

そして、この作業の後、この方と本格的にやりとりをすることになる。

(またまた続く)

シグマクレスト
人気ブログランキング

sigma1126 at 16:04|このブログを人気ブログランキングで応援する | PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

2004年10月14日

大切な2年目だった(1)

この社会人2年目がなければ、今の自分はなかったように思う。

1年目にCOBOLやPL/Iでプログラムを製造しまくった。ある程度はプログラマとして過ごしていく自信は出来たと思う。ここから先が、プロジェクトというものを体験していく道のりであった。

まずは、外資系の損害保険会社のプロジェクト参加指令が下った。

場所は麹町。事故発生時に受付をする「クレームオンラインシステム」の構築要員であった。

先発隊で既に現場で汗を流していた協力会社の方々から指示を受けてプログラム仕様書を起こすのがまず自分の仕事であった。

HIPO技法による細かい仕様書作りには大変苦労した。

当時はまだ紙と鉛筆の世界。ほぼプログラムステップ対応の仕様書であった為、紙にして100枚を超えるものがザラにあった。

仕様の理解もあるが、CICSを理解出来ていなかった為、何度も何度も書き直した。

そしてようやくレビュー通過した仕様書を元にまた別のプログラマに製造してもらう。

もちろん、プログラマからの質問に対しての返事や、仕様バグなどの発生によるスケジュール調整などの経験、また、あがってきたプログラムを検証し、問題があればまた差し帰す等のやりとりも発生した。

このようにして、まだまだ単位は小さいのだが、SE・マネージャの真似事はさせてもらった。

ただ、いかんせん、まだまだマネージャとして、設計者として、完全におまめの状態であった為、あるフェーズを終了したところで、プロジェクトからリリースされた。正直、その後このプロジェクトがどのように推移したのかはわかっていない。(まだまだシステムそのものについては無責任であったという事だ)

そして、次のプロジェクト。

このプロジェクトに参画したおかげで、今の自分がある。間違いない。

(続く)

教育事業も行っています。
人気ブログランキング

sigma1126 at 17:12|このブログを人気ブログランキングで応援する | PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

2004年10月11日

プログラマ時代の1年目

1984年8月。研修明けでいきなり人事異動を受けた。配属された部署は、ソフトウェア受託開発を生業とする所だった。

記憶が定かではないが、当時部員は20名弱だったと思う。ところが、席に案内されると、部長を含め、3〜4名しか座っていない。それも営業・庶務の方。いったいどうしたものかと思って行動予定表のホワイトボードを見た。すると、「国立」とか「和光」などと記入されている。

「そうか、この部署は、ほとんど出向もどきの業務専門部なんだ。」と初めて気がついた。やや物悲しい気分になったのを覚えている。

しかしながら、結局1年弱はそのまま社内で業務をこなす事となる。現場の社員(協力会社)のSEが設計したものを社内でプログラミングして報告する繰り返しだった。

・クレジット会社(IBM、COBOL、バッチ)
・タイヤ製造会社(IBM、PL/I、オンライン、バッチ、IMS)
・車製造会社(IBM、COBOL、バッチ)
・損害保険会社(IBM、COBOL、バッチ)

くる仕事の分量には山谷が激しく発生した。従って、かなり暇で時間に余裕の出来るときがあった。そんな時はIBM関連のマニュアルを隅からすみまで読み漁った。「今この一瞬を無駄に出来ない」気持ちに支えられた。

そんななかで、1度だけギブアップした業務があった。車製造会社の仕事で、現場に呼ばれた。オンラインプログラムの改修作業だ。今思えば、プロジェクトはお祭り状態だった筈だ。新人の駆け出しを現場にヘルプしなければならなかったのだから。

プログラムのコンパイルリストは5cm程もあった。見ると、CICSやADABASのコマンドを発行してるなど、当時まだ知識のない言葉が満載。1日じっくりと見たが、どうにもこうにも手も足も出なかった。「このままでは力になれない。」と上司に相談、結局会社に戻された。

そんなこんなで1年目の時が流れていった。

シグマクレスト
人気ブログランキング



sigma1126 at 14:17|このブログを人気ブログランキングで応援する | PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

2004年10月08日

仰天の人事異動

1984年8月1日、既に4月に「流通システム営業部」に配属が決まっていたが、研修明けのこの日、1日も実務で貢献せぬまま人事異動がかかる。

新人にとってはとても不安な事だった。

異動先は「東京ソフトウェア営業部」。当時の日本情報サービス(現 日本総合研究所)の生業は計算センター業務。お客様よりデータをお預かりして、データないし帳票を納品するのが主たる形態だ。

ところが、この異動先の部署はお客様の懐でシステム構築のご支援をする−という部隊。いわゆるシステム/ソフトウェア受託開発だ。

今や当たり前ではあるが、当時のコンピュータ産業に於いては、受託開発業務よりもむしろ計算センター業務の方が規模が勝っていた筈である。
特に、この会社に於いての当時のこの部署は会社からみると必ずしも主流ではなかった。むしろ、人事面等に於いても技術サポート的にも大事にされてはいなかったように感じた。

・・・・・・・

そんな部署に異動になった。
突然の事もあり、当時は、「何で自分が?」と感じたものだが、自分の今があるのは、この人事異動のおかげであった。間違いなく。

http://www.sigma-crest.com/
人気blogランキング

sigma1126 at 10:04|このブログを人気ブログランキングで応援する | PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

2004年10月06日

入社・そして研修

 1984年4月、私は日本情報サービス(現 日本総合研究所)に入社しました。文系出身でてっきり営業職に配属−と思っておりましたが、いきなりプログラム研修が始まりました。研修は、4月から7月末。最初の2ヶ月間はアルゴリズムの実習及びCOBOLプログラムの実習。今を思えば、この2ヶ月間の集中力が今の自分を支えているといってもいいでしょう。高校より合唱サークルに身を置き、学生指揮者として、大学卒業までほぼそれを命に行動しておりました。従って、それとは全く趣が違う状況で、仕事で自分を表現していく事にはかなり怯えがあり、恐かったのです。だから、「一分一秒でも気を抜くことなく、早く仕事が出来るようになって認めてもらいたい」という気持ちで、自分で言うのもなんですが、かなり頑張ったつもりです。
そして、後半2ヶ月は、いわゆる駆け出しSEの真似事、バッチシステムの設計の練習のような事を行いました。ここでは、外部からデータをもらって、マスター更新を行い、結果を帳票出力する−という一連の流れを手分けしてジョブ設計−プログラム設計−プログラミング−テストという工程を体験しました。
 今思っても、この研修はかなり良く出来ていると思ってます。現在、新しい仲間を迎えるにあたっての準備にも脈々と生きている−といった感じです。
 さて、研修最終日の7月31日。「高橋和美君とXX君とYY君は明日まず人事部へ行くように」と、研修担当の先輩の話。既に配属は「流通シグテム営業部」という部署に対して既に4月の時点で出されていたのですが、もしかすると働かずして人事異動?−という妙な感覚で8月1日、仕事デビュー日を迎えたのでした。
人気blogランキング

sigma1126 at 14:05|このブログを人気ブログランキングで応援する | PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!

2004年10月04日

デビュー前・この業界に飛び込む

 この業界に飛び込んだのは、1984年春。
大学では法学部に在籍していた。が、法曹界を志望するような勉強の仕方はせず、もっぱらサークル活動に没頭していた。また、自分が何をしたいか−を考えてもイメージがいまひとつ湧かない。そんな大学4年で夏を迎えていた。
 そんな時、「これからはソフトウェア!」という情報が入ってきた。当時、まだそれ程一般的な言葉ではなかった為、それが何であるかは自分では理解できなかった。が、次第に大量のDMの中からソフトウェアに関連する企業をチョイスして、企業研究を始める。
 そんなダイレクトメールの中に、「日本情報サービス」(現 日本総合研究所)があった。この業界ではかなり規模が大きく、バックに銀行がついているので、潰れることはないだろう−といういかにもだらしない理由で、企業説明会・面接に申し込む。
 当日、一頻りの説明を受けた後、適性試験、役員の方の面接を経た。適性試験は知能テストのような内容で「文系出身でどうせ営業職なのに、何故こんな適性試験なんだろう」と、またまたこの時点でも大きな勘違い。
試験当日の翌日、早くも内定の通知を受ける。「早いもんだな」と思ったが、当時の就職事情は売り手市場であった為、どの企業も急いでいるんだろう−くらいの思いだった。いずれにしても、一番最初に内定をいただいたので、この会社にお世話になろう。営業頑張るぞ!−とまだ考えていたのであった。

http://www.sigma-crest.com
人気blogランキング

sigma1126 at 11:20|このブログを人気ブログランキングで応援する | PermalinkComments(1)TrackBack(0)この記事をクリップ!
よろしくお願いします
土の香りのソフト屋さん
高橋和美

1984年 銀行系シンクタンク入社
その後、中小ソフトハウスにて経験を積ませて頂き、
2001年9月10日、螢轡哀泪レストを東京五反田に設立

当初6名で始めた会社も、徐々に体制が大きくなり、目下数々の壁に体当たり中。

夢は、第一線を退いても自分の居場所となる憩いのエリアを設立すること。

一人の成功は望まない。
仲間との成功分かち合いを好む。
年に一度はビールかけをするような元気で暖かい仲間・集団、そしてそれを周囲に伝染させていきたい。
月別