2004年11月04日

バタバタ4年目

4年目(1987年)は、後輩の面倒と仕事をパラレルにこなしまくった1年であった。

実は、これ以前より、総合食品メーカーの販売情報検索システムの維持についても、後輩の面倒を見つつ従事していた。ただ、仕事はこれ1本に集中していたので、面倒を見ながら、危なくなりかけたら自分が力ずくで完了させる−という繰り返しになっていた。

ところが、この頃からは、1つのプロジェクトに集中して拘われる時間が極端に無くなって来た。

販売情報検索システムの保守・維持・追加改善作業は依然継続していたので、まず、その仕事を後輩に多くを任せ始めた。何故なら、もう1本、全く別の電機メーカー様の顧客管理業務を任されたからである。

こちらは、プログラム開発の一括受託の仕事であった。COBOLにADABAS/NATURAL。
ADABASについての知識はほぼ無い状況で望んだが、何とか必要な部分を覚え、こなしていった。後輩がやはり1人ついていたが、2人で何とか力ずくで終わらせた感じだ。

夏以降、総合食品メーカーでもう1本仕事が入る。

これは全農様とのオンライン受注データの取込対応だ。
これに関しては、要件の聞き取りと概要設計部分までは自分で担当し、詳細設計以降を同期の人間に委ね、あとは時折の状況把握と課題解決に努めるようにした。
本番は年明けなのでまだ余裕はある。上手く任せられれば良いと思った。

このお客様との付き合いも3年目を迎えていたので、お客様から信頼を頂ける様になったと感じており、かなり多くの仕事を任されるようになってはいた。忙しかったが、有難く充実した時間であった。(やはりお客様との徹夜経験は効く。)

さて、2、3本、仕事をパラレルにこなしている毎日であったが、ここで全く別の種類の仕事に従事する事になる。

秋も深まったある日、部長に呼び出された。

「大阪の○○部署で市役所の総合業務を行っているのだが、プロジェクトが大変な事になっており、今般、社長より東阪の全部署にヘルプ要員を出すよう命令が下った。この部では君に頼むしかない。やってくれるか。」

聞くところによると、既に契約上の納期は越えており、このままいくと損害賠償問題にまで発展しそうであった。部長も鬼気迫る表情であった。まさか、「いいえ」と言える状況ではない。社長から東阪の全ての部署に出された命令だ。

私が所属していた事業部では私の他に後輩3名がノミネートされており、合計4名だ。

恐らく現地にて、プロジェクトはお祭り状態なので、期限がいつまでとなるかもわからない。片道切符のようなものだった。

従って、やりかけの仕事に復帰する事はもはや出来ないかもしれない。
部長からは「今の仕事については後は何とかする」と言われたが、自分が居ないとそれぞれ残したものにはかなり不安があった。(それだけそれぞれに上手く任せきれていなかったということだ)

とりあえず、付け焼刃的な引継ぎだけ済まし、言い渡された2日後にいく事となった。

場所は北陸地方。「とにかく助けに行かねば...」という思いで、羽田から飛行機に乗り込む。1人ではなかったので、心寒い思いはなかったが、自分が最も先輩なので、一応仕切らなくてはならない。

ただ、この市役所業務はNECの機械を使用していたので、とても自分が行って即戦力になるとも思えなかった。それだけが不安な要素であった。

だが、現場で見たその光景は、想像を超えるものであり、自分の不安など一気に吹っ飛んでしまうものであった。

(続く)

シグマクレスト
人気ブログ一覧

sigma1126 at 18:19│このブログを人気ブログランキングで応援する | Comments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!
▼SEとしての道のり 

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔   
 
 
 
よろしくお願いします
土の香りのソフト屋さん
高橋和美

1984年 銀行系シンクタンク入社
その後、中小ソフトハウスにて経験を積ませて頂き、
2001年9月10日、螢轡哀泪レストを東京五反田に設立

当初6名で始めた会社も、徐々に体制が大きくなり、目下数々の壁に体当たり中。

夢は、第一線を退いても自分の居場所となる憩いのエリアを設立すること。

一人の成功は望まない。
仲間との成功分かち合いを好む。
年に一度はビールかけをするような元気で暖かい仲間・集団、そしてそれを周囲に伝染させていきたい。
月別