2004年10月22日

大切な2年目だった(3)

2年目(1985年)の夏、大手総合食品メーカーの「販売情報検索システム」のパフォーマンス調査報告の作業を終え、本格的に構築プロジェクトの一員に加わった。

仕掛けとしては、日次で、他システムで作成した販売情報を受け取り、検索用のデータベースを夜間で更新するバッチ処理と、日中、データベースの検索リクエストを受付け、それを画面・帳票・ファイルにレポート出力するオンライン処理とに大きく分かれていた。

開発体制としても、検索用データベースの設計終了後はバッチチームとオンラインチームとに分かれ、それぞれが詳細設計、製造、テストしていく事となっていた。

私はバッチチームの担当となった。

チームと言っても、その時はまだ基本設計終了のタイミングであり、主にバッチ処理を担当していたのは、私の上司の部長だけであった。

従って、しばらくは部長に面倒見ていただきながらも、現実的には私が一人で担当するようなものだった。

バッチ処理の設計−についてはこれが初体験であった。

後々考えてみれば、ある部分を除くとそれ程難しいものではなかった(集計及びレイアウト変更)。が、初体験の身分では難しい部分も多かった。ジョブフロー設計やプログラム分割のコツ・マスター検索の定石等は教えていただくか痛い目を見ないと覚えない。

恵まれた事に、この辺りの多くの知識を教えていただく事が出来た。

ただ、それは上司の部長からと言うよりは、お客様のご担当からであった。情けないが有難い話だ。

その方の上司の方からは、「金を出して、その上勉強までさせてあげてる。」などと軽く皮肉られる場面もあったが、それはなんとか誠意で応えるしかない。

そんな中で、なんとか詳細設計・プログラム設計をレビューしていただきながら進捗させていった。それと共に、製造準備に入った。

プログラム製造については、協力会社に頼む事になっており、仕様書の整備と説明・開発環境整備、及び開発支援ツールの準備など、慌しく時が流れていった。

特に協力会社とのやりとりについては苦労した。

今だから言えるが、簡単なプログラムであるにも拘わらず、非常に品質の悪い状態であがってきたからだ。

FORTRANしか経験していないプログラマにCOBOLのプログラムは難しかった。

上へのGO TO文だらけの「二度と見たくないスパゲティプログラム」が多発した。

おかげ様で、ほとんど全てのプログラムを自分自身で書き直すハメとなり、品質管理・外注管理の難しさを思い知らされる事となる。

なんとか一通りの処理がバッチ結合テスト出来たのは秋が深まった頃。

ここからは、総合テストの為、現場に入る。オンライン側と含め、8名の体制であった。

オンライン検索側との結合確認の準備・作業の傍ら、年明けからは、本番運用の準備を始めた。

本番用のデータベースの申請、JOBNET設計、スケジューラへの登録申請を行うと共に、JCL(Job Control Language : UNIX、Windowsのシェル、バッチファイルに相当)の作成とその他資源の本番環境移行申請など、4月本番向け、着々と準備を進めていった。

順調−な、筈だった。

ところが、あと1ヶ月で本番という時に、私の経験のなさが招いた致命的なバッチJOB設計の欠陥が発覚する。

(次号「どろどろ3年目」へまたまたまた続く)

シグマクレスト
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よろしくお願いします
土の香りのソフト屋さん
高橋和美

1984年 銀行系シンクタンク入社
その後、中小ソフトハウスにて経験を積ませて頂き、
2001年9月10日、螢轡哀泪レストを東京五反田に設立

当初6名で始めた会社も、徐々に体制が大きくなり、目下数々の壁に体当たり中。

夢は、第一線を退いても自分の居場所となる憩いのエリアを設立すること。

一人の成功は望まない。
仲間との成功分かち合いを好む。
年に一度はビールかけをするような元気で暖かい仲間・集団、そしてそれを周囲に伝染させていきたい。
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