2012年08月21日

■劣等感

五反田厳しい残暑の毎日。「早く涼しくならないか・・」と思う反面、過ぎ行く夏にも寂しさを感じる何ともあまのじゃくな状態だ。昨日の銀座パレードはニュースでしか見ることが出来なかったが、平日月曜日の昼間にどこから人が出てきたのかと思わせる盛況ぶり。炎天下の中で赤のジャケットを着まとった選手達がまぶしかった。

「原発なくても夏乗り切れた?電力、ピーク時でも余裕」というタイトルの今朝のニュース。特に、西日本は、夏を迎える以前から、計画停電を予告されていたのだが、家庭の節電が功を奏し、余裕すらある状態とのこと。東電では、一部の火力発電を止めておけるほど。

悲しき震災が契機だとは言え、確実に国民の多くの脳裏には、エネルギーが有限である事が刻み付けられ、それが行動に繋がっているのだと思う。素晴らしい事であると同時に、自分ももっともっとこの流れに貢献したいと思う。



・・・・・

話はうって変わり、夏と言えば、また一つの忘れられぬ子供時代の思い出がある。それは小学校時代の体育でのプール授業でのものだ。まぁ、プールが無い学校もあるので、それがあるだけで恵まれてはいるのだが、この授業が自分にとってはひどくつらいものだった。

今でもそんなやり方をしているのかどうかは不明だが、そこは完全実力主義の階級性であった。

小学1年は、まず赤い帽子からスタート。定期的に開催される検定会で、合格すれば、黒い紐を授与され、それを帽子の額部分に縫い付ける。そしてまた次の検定に合格すれば2本目、そして3本までいって次に合格したら、今度は黄色帽子となる。また、1本、2本で3本までいくと、輝かしき白帽へ。確か、白帽に黒紐3本がMAXで、合格条件は、1000mを泳ぎきる事だったと記憶する。

つまり、一目見れば、誰しもの泳ぎのレベルがわかるという、出来る人から見れば誇らしく、出来ない人にとっては、たまらぬ惨めさを味わう仕組みとなっていた。

悲しい事に、確か小学校上がるまでにプール体験が無かった自分は、まず水への恐怖から抜け出すのに一苦労。「泳ぐ」などという高等技術を身につけるにはそれはそれは時間がかかった。やがて多くの友達は、紐1本、2本・・そして帽子の色が黄色や白に変わっていった。3年、4年でもまだ赤帽を身につけていたのは、自分を含め、1割にも満たなかったのではないだろうか。

「劣等感」というのは、ああいう気持ちを言うのだろう。悔しさよりは、そのプールの授業に向かう時の心持ちの悪さが先に立つ。どんなに悔しがっても、泳げないものは泳げない。その場から逃げたい気分、時が去っていくのをただただ待つしかない状況。

幸運にも、その後は5年生あたりからようやく開眼(と言っても人からかなり遅れてましたが)し、急ピッチで駆け上がって最後の最後には白帽をゲット出来たので、その思いをその後引きずる事はもはやなかった。

きっと、あの感覚も忘れてはならぬ事。

sigma1126 at 08:58│このブログを人気ブログランキングで応援する | Comments(3)TrackBack(0)この記事をクリップ!
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この記事へのコメント

1. Posted by 尾関 俊彦   2012年08月25日 23:57
5 小学校の水泳の教育、凄かったですね‼ 昔の教育は
結構競争意識等々上手く使って教育していましたね!
2. Posted by たかこ   2012年08月27日 16:30
私は、小1の時は水に顔もつけられませんでしたが、小3の夏に一気に黒線を取り、小5以降は地区大会に出て楽しかったことを思い出しました(^O^)
3. Posted by みなも   2012年09月20日 11:01
こんにちは
はじめまして

私も小学4年生で白帽黒線一本・・・だったかな。そこから全然上へは伸びなかったけど。
劣等感は今でも色々あります
人と比べちゃうんですね
くせですかね
比べると幸せではいられないよなあ
そんな気持ちです

ワンちゃんの可愛いお写真に癒されました
ありがとうございました

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よろしくお願いします
土の香りのソフト屋さん
高橋和美

1984年 銀行系シンクタンク入社
その後、中小ソフトハウスにて経験を積ませて頂き、
2001年9月10日、螢轡哀泪レストを東京五反田に設立

当初6名で始めた会社も、徐々に体制が大きくなり、目下数々の壁に体当たり中。

夢は、第一線を退いても自分の居場所となる憩いのエリアを設立すること。

一人の成功は望まない。
仲間との成功分かち合いを好む。
年に一度はビールかけをするような元気で暖かい仲間・集団、そしてそれを周囲に伝染させていきたい。
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